プロ野球なんかだと9番バッターは投手だったりして攻撃を期待しないケースが多いですね。
しかし、高校野球ではそういうことにならないですね。
私が見た恐怖の9番バッターベスト5はこんな感じです。
第5位 旗手選手(PL学園)1984年
守備の名手だけど、ホームランも打ち甲子園準優勝の立役者。
第4位 笹岡選手(PL学園)1984年
東海大山形戦の6安打は今でも1試合最多安打記録。
第3位 五十嵐選手(駒大苫小牧)2004年
2年生で全5試合に出場19打数8安打、甲子園優勝に貢献。
第2位 西川遥輝選手(智弁和歌山)2008年
1年生時は13打数6安打、1試合2本の3塁打が印象的。
第1位 山口選手(池田)1982年
やまびこ打線で甲子園を優勝した時の恐怖の9番バッター。
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【永遠のPL学園】
最強野球部 誕生から謎の廃部までのすべて。
甲子園春夏通算96勝、全国制覇7回を誇るPL学園野球部が、2016年夏をもって休部に追い込まれた。
1955年の学園創立と同時に誕生したPL学園野球部は62年春の選抜で甲子園初出場を果たし、78年夏に初の全国制覇を果たす。その試合ぶりから、「逆転のPL」が同校野球部の代名詞となった。
その後も、高校球史に名を残した桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」をはじめ、数々のスター選手を輩出。立浪和義、宮本慎也、松井稼頭央、福留孝介、前田健太ら、プロ野球に進んだOBは82人を数える。
そんな超名門野球部が、「謎の廃部」に追い込まれた。
最後の部員は特待生もいない「普通の高校生」の12人。著者は、連戦連敗しながらも必死に戦う彼らの成長を追うとともに、実名証言を積み上げ、廃部に至った真相を明らかにしていく。
そこには、学園の母体であるパーフェクトリバティー教団の意向、監督に野球経験者を据えない学園の判断、「強いPLの復活」を求めるOBの声――様々な事情と思いが交錯していた。第23回小学館ノンフィクション大賞受賞作。
文庫版では新証言をもとに、「伝説のKKドラフト秘史」などを書き下ろし。
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【清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実 】
PL学園時代の清原和博が甲子園で放った通算13本塁打は、今後破られることがないであろう不滅の記録だろう。この13本は、ただの記録として残っているわけではない。甲子園の怪物に出会い、打たれた球児たちは、あの瞬間の”記憶”とともに、その後の歳月を歩んできた――。
2016年6月、清原和博は覚せい剤取締り法違反で有罪が確定した。甲子園歴史館からは清原和博の痕跡が消え、踏み入れてはいけない領域に手を染めてしまったヒーローの名前は世間の表舞台から消えていった。そんな中、甲子園で13本塁打を浴びたライバル全員が、30年以上の時を経て、あえて今、静かに口を開いた。これは、18歳の清原と49歳(2016年当時)の清原への、打たれた者たちからの”30年越しの告白”である。13本のホームランが生んだ真実が、ここに蘇る。
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【PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って】
立浪和義、片岡篤史、野村・橋本・岩崎の投の3本柱……。1987年、甲子園を春夏連覇したPL学園は「史上最強」と称されていた。チームの正捕手を務めた伊藤敬司もまた、中心メンバーとして歓喜の輪の中にいた。しかしいま、伊藤は難病ALSとの戦いを強いられている。過ぎ去りし青春と友情の日々、彼を励まし続ける仲間たちの物語。
立浪和義、片岡篤史、野村弘樹・橋本清・岩崎充弘の投の3本柱……。1987年、甲子園を春夏連覇したPL学園は、「史上最強」と称されていた。チームの正捕手を務めた伊藤敬司もまた、中心メンバーとして優勝へ大きく貢献した。
伊藤はPL学園を卒業後、青山学院大学を経てJR東海野球部へ入部。プロという夢は果たせなかったものの、野球部を引退後は、大企業のサラリーマンとして第二の人生をスタートさせた。
しかし、順風満帆と思えた人生は、理不尽な病によって一変した。難病・ALSを宣告されたのだ。
身体は日々動かなくなっていき、やがては声も失った。
昨日できたことが今日できない恐怖、介護なしでは生きられない情けなさ、残していく家族への不安……。
そんな思いを抱えながら、それでも伊藤は毎日を懸命に生きている。
伊藤にとって、PL時代の春夏連覇はどんな意味を持っているのか。男は今、何を思い難病と戦っているのか。
過ぎ去りし青春と友情の日々と、彼を励まし続ける仲間たちの物語。
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コメント
旗手選手はセルティックの旗手怜央選手のお父さんとしても有名ですね!
自分的な恐怖の9番打者としては、愛媛県大会リアルで見たんで済美の政吉選手を推したいと思います。